「Gesetz ist Gesetz」とは直訳すれば「法は法なり」とならうが、一般には「悪法も法なり」と訳出される。また、ケルゼンの「それゆえ、法はあらゆる任意的内容をとりうる」といふ言葉も、上記「悪法も法なり」と同様に、法実証主義「Rechtspositivismus」の言葉とされ、また法実証主義は皮肉を込めて「概念法学」と呼ばれる。自然法優位の現在において、致し方ないことなのかもしれない。 法実証主義は、近い過去において自然法主義の没落を尻目に、華の時代を迎へてゐた。「自然法の夢は見尽くされた」との言葉にあるやうに、国家の安定や権利・自由概念の定着により、自然法は説得力を失ひ、実証主義の時代が訪れてゐた。しかし、「悪法も法なり」とする実証主義がナチス圧政に対して全くの無力であつたことが、実証主義を衰へさせ、再び自然法主義の時代を導いた(余談だが、安楽死に対して法学界に未だ抵抗感があるのもナチスの安楽死悪用のためである)。我が国もボアソナードが自然法主義者であったために、比較的早い段階において自然法概念が紹介されたのではあるが、やはり実証主義の隆盛を経て、戦後にほんたうの自然法時代が来たといへるであらう。 さて、ここで簡単に説明しておくと、自然法「lex naturalis」とは、制定法の対置概念であり、社会や国家の成立以前から存在し続けると考へられる普遍の根本法と理解されてゐる。たとへば、日本国憲法(小生は、この憲法を昭和二十一年無効改正帝国憲法と呼ぶ)に数多く定められてゐる人権といふ理念は、憲法が存在するゆゑに存在するのではなく、憲法以前・有史以前から自然に存在してゐる自然法の概念を明記したにすぎないと解されてゐる。であるから、憲法が「人権はこれを認めない」としても、憲法自体が自然法に反してゐるために無効であるとされる。つまり、「悪法は法ではない」と解釈することが可能になるのである。 対して、法実証主義とは様々な立場があり、その内容は一様ではないが、主に自然法の存在を認めず「悪法も法である」とする立場、「道徳と法の間に必然的関連性はない」とする立場、「国家による制定法のみが法である」とする立場などの総称として捉へることができよう。憲法が「人権はこれを認めない」とするならば、法実証主義によれば人権は認められないといふことになる。刑法が「人を殺してもかまはない」とすれば、殺人は当然に犯罪でなくなる。 小生は半ば差別語とも化した実証主義者である。ケルゼンのいみじくも指摘するとほり、「法の根拠を形而上的なものに求めようとする試みは全て失敗にをはる」のであり、「自然法は法の全てを説明しうると同時に何も説明し得ない」のである。なぜなら、誰一人として「自然法において人権は不可侵であると定められてゐる」といふ名題を客観的に証明することは不可能だからである。結局、自然法は一つのイデオロギーでしかないのだ(もちろん客観的証明を絶対とする科学主義もイデオロギーである)。 しかし、自然法を採用しないからには法の安定性・妥当性を確保するための説明義務が生じよう。「たしかに、自然法は結局何も証明せず、同義反復にをはるイデオロギーではあるが、実証主義よりも安定性・妥当性の保障に優れ、また国民の権利を擁護するために最も有効な手段であるのだ」との反論が可能だからである(民主主義・資本主義についても同様の理論が存在する。つまり「たしかに欠点はあるけれども、この制度は現在我々が採りうる最も有効な制度である」といふものである)。この説明義務を果たすのは、西洋においては難しいであらう。世界権威の根本がGottであるからには、どうしても究極的には全ての物事の説明がGottに行き着かざるを得ない(自然法は究極には基督教である)。対して、我が国においては権威の根本は天皇で あり、法学においては天皇と臣民を規律する国体法である。自然法とは異なる説明により、我が国の法は社会的安定性を確保することが出来るだらう。また、もともと実証主義的性格が強いと言はれる英米法圏において、慣習法が絶大な威力をほこる(慣習法は制定法によつても容易に改変できない)ことも参考になるかも知れない。 国体法は純然たる自然法ではないと同時に純然たる慣習法でもない。さらに、ただの道徳でもない。「人を殺してはならない」といふのは、刑法百九十九条規定の規範解釈によつて導き出せる。これは、自然法に基づくのでもなければ、ただ刑法のみに基づくのでもない。生命を尊重する我が国体から導きだされるものである。そして、この国体は自然法と異なり、歴史・文化・大御心・大御歌などから具体的に導き出すことが可能なのである。 また、小生は道徳と法は厳しく峻別されるべきであると考へてゐる(当然極めて少数説に甘んずる)。紳士的な人々は、法は道徳を実現し、法の中にも道徳が見いだせなければならないと考へるであらう。しかし、法は完璧ではない。法が道徳的要素を含む限りは道徳は実現しえないのである。道徳は道徳として独自の道を歩むべきであり、欠陥だらけの法に取り込まれ、その範囲を矮小化させるべきではない。不適切なたとへかも知れないが、臣民は天皇とは切つても切れないのであるが、天皇は臣民と明確に区別されるべきであり、天皇を臣民に含めて捉へ、天皇を矮小化してはならないが如くである。 以上の意味で、小生は実証主義者である(ケルゼン主義ではない。価値相対主義には与しない。そもそも日本には絶対主義に対置すべき概念が存在しない)。つまり自然法を採用せず、道徳と法を区別する。 前回のコラムで日本の近代化を否定し、今回は自然法を否定する。何と非現実的な人間であらうかと、小生自身も自戒してゐる。また、批判も多からう(法実証主義に対しては勿論のこと、コラムにこのやうな話題を書くこと自体への批判が多いと思ふ)。しかしながら、誤つた理念にもとづく現実は遅かれ早かれ崩壊の一途を辿るのであつて、我が国の磐石を期す使命を負つた一臣民として、言はずにはをれないのである。
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