【天皇論と民族主義】
約250年続いた徳川幕府を倒した明治維新政府は、それまでの封建意識にある庶民を国民意識へ方向転換する必要に迫られた。国際情勢は逼迫しており、ぐずぐずしていたらたちまち欧米列強の帝国主義の餌食になってしまうからだ。国家意識を持たせ富国強兵政策を断行することが、日本の近代国家への足がかりとなると維新政府は判断した。
民衆に「日本」という国家意識を持たせる。このために維新政府は皇室をその権威の象徴として仰ぎ、天皇の名の下に挙国一致体制を取るに至ったのである。それから、70年あまり、明治の元老たちが必死で築き上げた国家をその後継者たちは、わずかな期間で崩壊させた。しかし、政体は変わっても国体はそのまま維持されることになる。つまり、日本国憲法にいうところの象徴天皇制である。
われわれはこの「象徴としての天皇制」を否定しない。しかし、一言いっておくと、われわれはGHQによって与えられた日本国憲法の象徴天皇制は、その歴史的正当性の欠如から否定している。われわれのいう「象徴」とは日本の歴史・文化・伝統に対するといった意味であり、これを「権威」と読み替えても差し支えない。さらに言うなら、戦前戦後で天皇の政治的な立場は法制面ではどうであれ、実際には何らの変化もない。それゆえに、あえて憲法において象徴天皇を謳う必要はないのではと考えている。
われわれの本意は「天皇」と「政治」の明確な分離にある。この意味において、皇室は歴史の中で長い間、政治の舞台から一定の距離をおいてきたといえよう。大東亜戦争敗戦以前の天皇制も、補弼者あっての君臨であり明治以降、絶対的権力者として君臨したことがないのは明らかである。つまり、明治以来の天皇制においても基本的には日本の権威の(権力ではない)象徴であったと考える。戦争中の軍部に、この天皇の権威をその大御心とは違う方向に利用されたために、いまだに戦争責任問題を追及するやからがいるが、これは昭和天皇の大御心を理解しないものの暴言であると考える。
欧米列強のいわゆる絶対王政君主と、日本の天皇との決定的な相違は、その権力的指向性の有無にある。欧米列強の君主は自らの蛮行はそっちのけで、自国(といっても自分を取り巻く一部の特権階級)の利益のみを貪欲に追求し、アジア・アフリカ・大西洋・インド洋・太平洋とまさに地球規模で侵略行為をした。それに比べると明治天皇は日露戦争開戦直前に「自分がモスクワに行って、ロシア皇帝と直接話し合っても良い」と何とか戦争を回避されようとした。昭和天皇が国家の政治に、自らの意志を断固として表されたのは2.26事件時とポツダム宣言受諾時のわずか2回であったという。
この天皇自らが政治に疎遠なのは、明治に始まったことではない。江戸幕府を開いた徳川家康は朝廷の幕府への干渉をなくすために、朝廷と政治の分離を行っている。また、日本史の上では保元の乱にみられるような朝廷内の抗争や、建武中興にみられる天皇親政のエピソードは数多いが、実際に天皇自らが政治の手腕を発揮したのはごくわずかな期間であり、多くの場合、権力者の絶対性に対する裏付けの位置に徹してきたのである。
あの大化改新でも、後に天智天皇になる中大兄皇子は、中臣鎌足(後の藤原鎌足、藤原氏の祖)がいてこそ政治の刷新ができたのである。ちなみに、壬申の乱で大友皇子を破った大海皇子(後の天武天皇)は、その権力を日本の防衛(白村江の敗戦にみられるように、このころからすでに朝鮮半島は日本防衛線であった)とインフラの整備に注ぎ、大陸・朝鮮半島の脅威に対抗した。これは天皇自らが指示して国家の方針を策定した珍しい例である。この後、藤原氏の台頭により再び天皇は政治から遠ざかってゆく。
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