昭和53年、いわゆる「A級戦犯」が靖国に合祀された。 その後の5年間で、福田赳夫・大平正芳・鈴木善幸の3人の首相が靖国神社に参拝している(大平以外の2名は、終戦記念日にも参拝した)。 しかしながら、中華人民共和国政府からの激しい抗議はなかった。また、国内メディアの批判もさほど激しいものではなかった。 ところが、中曽根政権になって3年目の夏、事情は一変することとなる。3度目の中曽根参拝から突如、首相の靖国参拝は内外の激しい批判にさらされることとなったのである。 以下は、その事情を類推するに十分な経緯について編集した年表である。総裁権力をめぐっての各派閥の暗闘や、大陸宥和派の木曜クラブ、伝統的な台湾派である清和会の牽制しあい、あるいは野党向け国対のあり方の変化など、自民党内の政治力学が垣間見られると同時に、「水を飲むとき、井戸を掘った人のことは忘れない」という、関係した人間を重視する中華人民共和国独自の外交価値観があぶり出されている経緯だと言えるだろう。 また、ここには、靖国参拝を明言する小泉純一郎内閣にあって、田中真紀子外相が父親から引き継ぐべき真の歴史的役割もまた暗示されているように思われる。
戦後日本の保守政治史の中で、対中関係においては、田中角栄(木曜クラブ=>経世会)の存在を抜いて、それを語ることはできない。 上の表では、ロッキード事件他による金権体質のイメージにより、司法の手により有罪が下されたあとの田中政治力の低下、また自民党自体の大恩人でありながら、同時に選挙のたびにお荷物になりかけていた皮肉な状況、弟子・竹下登の裏切りによって、ついには脳梗塞に倒れるという政治力の喪失の進行と、疾風怒濤の靖国戦後史とも言うべき昭和50年代の見事な重なりが浮き彫りになっている。 福田・大平・鈴木は、靖国に参拝した。しかし、中華自民共和国政府からの抗議はほとんどなく、外交問題に発展することはなかった。それが、田中角栄の政治的影響力の失墜した中曽根政権中期以降、外交問題の様相を見せてくる。日中国交回復をなした一人の政治家の存在感の強弱で、靖国参拝をする首相が守られたり守られなかったりする側面があったとすれば、その娘もまた、外相として、父の血を受け継ぐ者として、靖国参拝をする首相をかの国の政府の批判から守ってやることが、歴史を俯瞰したとき見えてくるその真の役割だと言うべきであろう。 copyright of this page : Motokida Kura |
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